無外流とは

無外流とは

 無外流は1693年に流祖・辻 月丹が創始した剣術(剣法)の流派です。無外流居合は正確に言うと自鏡流居合ですが、無外流の指南役が指導していたため、一般に無外流居合と称していました。
 無外流 流祖である月丹は自鏡流居合の祖・多賀自鏡軒盛政について自鏡流居合を学び、辻家代々自鏡流宗家の指導を受けていました。自鏡流居合は六代で後継者が絶えたため、無外流伝承者に受け継がれてきました。
 現在の無外流居合は、無外真伝剣法の中で伝えられた自鏡流居合を、無外流中興の祖・中川士龍師範が無外流居合兵道として改めたもので、「無外流居合兵道」という言葉は、第十一代宗家・中川士龍申一先生の「造語」です。
 自鏡流第五代宗家・山村司昌茂先生に居合を教わり、無外流の稽古に本格的に取り入れたのは、第六代宗家 高橋八助充亮先生とその弟である秀蔵先生であり、その居合を20本の形、3本の内伝に纏め上げたのが第十一代宗家・中川士龍申一先生です。
 現在、私たちは第十一代宗家・中川士龍申一先生が纏め上げ、名付けた「無外流居合兵道」を稽古しております。

流祖・辻月丹の話

流祖  慶安元年(1648年 徳川家光の世)、近江の国甲賀郡宮村字馬杉にて、流祖・辻月丹(幼名:兵内)は生まれました。
 十三歳のとき、京都に出た兵内は山口流の山口卜真斎について山口流剣術を学びました。そして二十六歳のとき、師匠より山口流の免許を認可されると同時に江戸出府を許されました。こうして江戸に来た兵内は、麹町九丁目に道場を構え、山口流兵法の看板を掲げましたが、このときは名も無い田舎兵法者として相手にされず、僅かばかりの弟子と稽古し、修行していました。
 また兵内は、学問と心の修養の必要を感じ、麻布吸江寺の石潭禅師に師事し、禅学と中国の古典を学びました。 その後、石潭禅師が遷化されたため、続けて第二世・神州和尚について参禅し、四十五歳のときに悟りを開きました。神州和尚は師・石潭禅師の名で兵内に次の偈(げ)を与えました。

一法実無外(一法実に外無し)(いっぽう じつに ほかなし)
乾坤得一貞(乾坤一貞を得)(けんこん いってい を う)
吹毛方納密(吹毛まさに密に納む)(すいもう まさに みつに おさめ)
動着則光清(動着すれば光清し)(どうちゃく すれば すなわち ひかり きよし)

 そして元禄六年(1693年)、兵内は兵内を改め月丹資茂(げったんすけもち)とし、流名を偈よりとり「無外流」としました。

 二十年わたって参禅した月丹は、剣者であるとともに禅者でもあり、学者でもありました。吸江寺を訪れる大名とも対等に語ることができ、その中には小笠原佐渡守長重、厩橋の藩主・酒井勘解由忠挙、土佐藩主・山内豊昌らがいました。

 元禄八年(1695年)、江戸の大火によって月丹の家が焼失してしまったため、それまでの弟子の数はわかっていませんが、元禄九年より宝永六年(1710年)まで十四年間の誓詞によると、万石以上の大名三十二家、直参百五十六人、陪臣九百三十人とあります。
 月丹には、大名家から師範役として迎えたいと度々、声がかかりました。しかし一探求者としての人生を希望していた月丹は、その申し出を断りました。代わりに、厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の甥・無外流第二代辻右平太を、土佐藩山内家には月丹の養子で無外流第三代後継者の都治記摩多資英を推挙し、師範役としました。伊勢崎の酒井家(分家)磯田某も右平太に学び、その流れは挙母藩(ころもはん、現在の豊田市)の内藤家に伝わっています。

 月丹が六十一歳のときには、酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として五代将軍・綱吉に謁見の許可が出ました。不運にも綱吉の死去により実現はかないませんでしたが、一介の浪人剣客に御目見得の許しが出たことは当時、破格の出来事でした。

 剣者であり禅者でもあった月丹は、剣と禅は一如であるとしています。その内容・文章の充実さにおいて一流とされる、月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文には、「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知の上当流の剣法御懇望且つ御篤志につき……」とあります。月丹は門弟たちにも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったようです。
 月丹の没する三か月前の姿は、袈裟を掛け、手には払子を持った高僧として描かれています。また別の画には袈裟を掛けた姿ではありますが、右手に木刀を持ち、眼光鋭い剣者としての月丹が描かれています。

 こうして家庭を築くことなく一生を不犯で通した月丹は、享保十二年(1727年)六月十三日、座禅を組み、左手に念珠、右手に払子を持ち、七十九年の生涯を閉じたといわれています。

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